(3)南北戦争(北部の動きは赤、南部の動きは青で表示)
a.南北対立
・南北対立
南部:綿花プランテーション、州権主義、自由貿易、奴隷制賛成
北部:工業、連邦主義、保護貿易、奴隷制反対
・ミズーリ協定(1820)
北緯36度30分以南で奴隷制を認める
・カンザス・ネブラスカ法(1854)
→南北対立は決定的、奴隷制反対派の共和党結成
・ストウ夫人の『アンクル=トムの家』 |
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1820年代からそれまでくすぶっていた南北対立が表面化します。南部はイギリスにおける綿工業の発展の結果、綿花の大供給地となっていて綿花やタバコの栽培は黒人奴隷を使役するプランテーションで大規模におこなわれていました。南部ではこのようなプランテーションの経営者が政治権力をもち彼らは政治的には州権主義(州の自治を優先)を、また綿花の輸出に頼るところから自由貿易を唱えました。一方、北部では工業が発達し始めていたので圧倒的な競争力をもつイギリス製品の流入を防ぐために、保護貿易が主張され、また政治的には連邦主義(合衆国政府の権限の強化)が支持されていて、奴隷制には強い反対がありました。
両者は、開拓の進展につれて西部に設立されていった州に、奴隷制を認めるかどうかで対立を深めていき、1820年のミズーリ協定で北緯36度30分以南で奴隷制を認める妥協がはかられましたが、54年のカンザス・ネブラスカ法でミズーリ協定が無視にされて、南北対立は決定的になり、北部の奴隷制反対派は共和党を結成します。また、ストウ夫人の『アンクル=トムの家』の出版などで、奴隷制反対の世論が広がっていきます。
b.南北戦争(1860〜65)
・経過
共和党リンカンが大統領に当選
→アメリカ連邦(首都リッチモンド)結成
→南北戦争開戦→南部優勢
→62年 ホームステット法:西部の支持
→63年 奴隷解放宣言
→ゲティスバークの戦い→北軍の勝利
・結果
奴隷制は廃止されるが参政権・差別の問題は残る
黒人は小作人(シェアクロッパー)に
黒人差別:KKK |
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1860年に共和党のリンカンが大統領に当選すると、翌年南部諸州は合衆国を脱退してジェファソン=デヴィスを大統領に、アメリカ連邦(首都リッチモンド)を結成し、同年南軍(リー将軍)の攻撃により南北戦争の戦端が開かれ、南部優勢で戦いは進みました。リンカンは西部の支持を得るために62年にホームステッド法(注1)を出し、翌年には奴隷解放宣言を出し国内外の世論を味方にし、ゲティスバークの戦い(戦い後のリンカンの「人民の、人民による、人民のための政治」の演説は有名ですね)での北軍の勝利をきっかけに戦況は逆転し、1865年多大の犠牲者を出した内戦は北軍の勝利に終わりました。戦後、奴隷制は憲法修正第13条により廃止されましたが、解放された黒人は小作人(シェアクロッパー)になり、KKK(クー・クラックス・クラン)などの黒人差別組織が作られるなど参政権や差別は残り、黒人の権利が保証されるようになったのは1964年の公民権法成立の時でした。
(注1)公有地に5年以上定住・耕作したものに無償で160エーカーの土地を与えました。
(4)帝国主義(大統領を赤、対外政策を青で表示)
a.資本主義の発展
・1890年代に工業生産で世界第1位
・独占資本主義(トラスト)の形成→反トラスト法
・大陸横断鉄道(1869)開通
1890年代にフロンティア消滅
→新たなフロンティアもとめ海外進出(カリブ海政策)
パン=アメリカ会議(1889)
・社会主義運動
アメリカ労働総同盟(1886、AFL):熟練工の労働組合
b.マッキンリー(共和党、1897〜1901)
・米西戦争(1898)
キューバの独立運動を支援
→米西戦争
→パリ条約
キューバ保護国、
プエルトリコ・グアム・フィリピン獲得
・ハワイ併合
・門戸開放宣言(1899):国務長官ジョン=ヘイ
c.セオドア=ローズヴェルト(共和党、1901〜1909)
・対外:棍棒外交
・パナマの反乱→独立→パナマ運河開通(1914)
・日露戦争の仲介
・内政:革新主義 |
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19世紀後半は大統領毎に帝国主義政策(対外政策)を押さえよう。
19世紀末ごろにはアメリカの工業生産はイギリスを追いこし世界第1位の地位を占めるになり、これによりトラストとよばれる独占資本主義の形成がすすみ、このような独占の進行を抑えるため反トラスト法が制定されますが効果はほとんどありませんでした。1869年の大陸横断鉄道の開通などもあり、1890年代にフロンテアが消滅し、あらたなフロンテアをもとめて海外進出を積極的にすすめる政策を選択することになります。また資本主義の進展で1886年にアメリカ労働総同盟(AFL、熟練工の労働組合)などの労働組合が組織されるようになりました。
1897年大統領に選出されたマッキンリーは、中南米および太平洋・極東への進出を企て、翌98年には多額の資本を投資していたキューバの独立運動を支援して、スペインに対し米西戦争をおこして、その結果キューバを保護国とするとともに、プエルトリコと太平洋上のグアムとフィリピンを獲得し、以後アメリカは、カリブ海政策を展開し、パン=アメリカ主義の名のもとに、中南米諸国にたいする軍事的・経済的支配を強化するようになりました。また、アメリカは米西戦争のさなかハワイを併合し太平洋の要地を獲得し、さらに極東への進出しようとして、1899年国務長官ジョン=ヘイが門戸開放宣言を発し、列強にたいして中国の領土保全・門戸開放・機会均等の3原則の保証を要求して中国市場への割り込みをはかりました。
第26代大統領のセオドア=ローズヴェルトは対外的には1903年にパナマの反乱を支援してコロンビアから独立させ、パナマ新政府から運河の工事権と租借権を得て翌年着工し1914年にパナマ運河が開通するなど棍棒外交を展開し、日露戦争の仲介もしました。内政的には革新主義と呼ばれる独占の規制と労働者の保護をおこないましたが効果は上がりませんでした。